見出し画像

【錦江しごと図鑑】自分が解放された。 画家 越山由唯さん

今回の錦江しごと図鑑、22人目は錦江町に移住された現代美術家の越山由唯こしやまゆいさんです。

越山さんのギャラリー《ゆいの小窓》 には所狭しと絵が並ぶ

家庭の教育方針が厳しく、画家になるという夢をなかなか認めてもらえなかった幼少期。けれど、越山さんは諦めずに夢を叶える方法を模索します。

「母が幼少期に絵画の公募展に入賞して、それを喜んだ祖父が母を画家にしようと絵を教えて始めたんです。母はそれが嫌な記憶で残っていて、絵は教わるものではないという思いがあり、私が絵を教わる事に大反対でした。私が画家になるために美術大学(以下、美大)に行きたいって伝えた時に『あなたより絵が好きな人は絶対いるからやめなさい』って断固として認めてもらえなかった」

「美術科がある高校を受験しようとしたらそれも許可してもらえなくて。結局普通科のある高校に通って美術部に在籍して絵を続けました」

「2年生の先輩が美術部の顧問の先生に『美大に行きたい』って相談したら、『はじめるのが遅すぎ。無理』ってあっさり断られていて。それで当時高校1年生だったんですけど、焦ってすぐに相談したら、『今すぐデッサンの勉強ができる教室に行きなさい』っていうことになって」

顧問の先生が運営しているデッサン教室へ電車で片道約1時間半かけて通います。両親には教室へ通っていることは誤魔化しながら、アルバイトの許可だけもらい、アルバイト代で画塾に通っていたそうです。

素描(そびょう)。作品制作の前のモチーフを分解する作業
錦江町の自然を水彩で描いた作品も多い

「当時テレビで手描き友禅工房が放送されていて、興味を持ちデッサンや水彩画を持って職人さんのところへ話を伺いに行きました。その時に絵を褒めて下さったこと、突然来た高校生にも真摯に対応してくださった姿がとても素敵で、自分も職人になりたいと思うようになりました」

そして見事、美大に合格。

「美大は画家じゃなくて職人だったらいいだろう、と。なんとか両親を説得して了解を得ました。大学では平日は授業や日本画制作、土日は手書き友禅工房へ友禅を学びに通っていました」

大学卒業後はご両親に内緒で京都の友禅染の工房へ就職の面接に行った越山さん。

「京都へ行く当日の朝スーツを着て、両親に『これこれこういうことなので行ってきます』と」

「面接で知ったことですが、修行時代は給料なんてあってないようなもので、完全に歩合の職人の世界。月のお給料が5000円なんてこともざら。なので、最初は工房の親方とじっくり話し合いました。面接の次の日には家を決める予定だったので、さすがに心配になったのか母が愛知県から来てくれました」

結果、無事に就職できたものの、とても職人のお給料だけでは食べていけません。

「お給料が低い分、副業は認めてもらえていたので、旅館で並行して働いてなんとか食いつないでいました。本当に忙しい時は工房と旅館を行ったり来たりで、午前3時まで作業とかそんな日が週に2~3日。3日間の間に30枚の図柄の草稿を完成させても実際に採用されるのは1枚あるかないかで、採用されれば1000円とかそんな状況でした。貯金が一切できず、心のゆとりは削られていきますよね」

「それである時にミスをしたことがきっかけで衝突して、糸がぷっつりと切れました。次の日に『自分、できの悪い人間なので』って言って辞めました」

「その後も京都に残って旅館の仕事は続けていましたが、父に職人を辞めた事がばれて、『(美大の)高い学費を払ってやったのに何をやっているんだ』と連絡が入りました。実家に戻る気持ちはなかったのですが、心はえぐられましたね」

冗談まじりに過去に苦労された話を語る越山さん

転職活動の結果、京都で家具や内装のデザインなどインテリアのトータルコーディネートを請け負う会社へ就職します。並行して大学時代の繋がりでたまに展覧会に出品し、絵を制作することは継続されていました。

その頃は仕事も順調だった越山さん。京都から名古屋へ異動を経て、三重の支店で店長就任の話が出るほどだったそうですが、葛藤もあったようです。

「その時、名古屋で絵を出品したんですけど、自分の絵は暗かった。後輩は色鮮やかで羨ましいなって。職人もダメだったし、自分は何にもできないな〜って。でもよくよく考えたら唯一絵だけは続けてきたので。もう一回頑張ろうと」

転勤先の三重では偶然の出会いもあったようです。

「三重のとある蕎麦職人さんが気になっていて、その人は元アナウンサーだったんです。妙に達観していて、その人に相談したんですよ。絵に自信を持たせるにはどうしたらいいですか?って」

そうしたところ、”自然に身を任せなさい”と一言薫陶くんとうを授かった。

「そうか、自然体でいいんだ、と。そこから自分の好きなことを主題に置くようになって。2017年に大きな協会が主催する展覧会で絵を出品したら入選しました。名古屋のとあるギャラリーのオーナーが気に入ってくれたり、初めての個展を開催して作品が売れてきたり、作家としての活動が本格化していきましたね」

タイトル『天命』 死を迎えるザクロが助けを求めている様子を描いた

「ただ、私の絵の描き方は日本画の世界では邪道に当たるので、このまま進めてもいいものかと葛藤もありました」

「伝統的な日本画の世界は、礼儀作法や風習など守るべきルールが多く、描くべき絵の過程やアプローチの方法も協会によって大体決まっている。それに対して、私は岩絵具に様々な材料、例えば石膏を混ぜたりして描いていた。とある展覧会で賞を受賞した時も”こんなのは日本画じゃない”って批判された」

「ここは私の居場所じゃない」

己の道を行くことを決めた越山さん。カップ麺を頬張りながら絵を描く日々が4年ほど続きました。そして、また人生に転機が訪れます。

「ある時、画家の田中一村さんの絵を生で観たくて奄美大島の美術館に行ったんです。そこでずっと海ばかり眺めていて」

「そしたら海を描きたくなって。もっと海が近いところじゃないと描けないと思って調べたところ、錦江町アーティスト・イン・レジデンスの存在を知りました」

そんな経緯で2022年の12月から錦江町へ移住されます。

「錦江町には応援してくれる人たちが多くて助かっています。食べ物も美味しくて。最初は羽アリやなめくじの大群に襲われて大変でしたけど(笑)」

最近ちょっとした心境の変化もありました。

「錦江町に来る前から決まっていた、静岡の美術館への出品が2024年6月に終わって、約束が果たされたことで絵のしがらみだったり、何か憑物が落ちました。少し前まで心が苦しかったんですけど、今はとてもすっきりしています。絵のことでイライラしなくなって、焦りの気持ちもなくなった。他作家との比較をやめられましたね」

「錦江町の海を見て、空を見て、森を見て、ゆったりした時間の流れの中で自分の内側と向き合って。外で釣りをしている時によくボーっとするんです。この色はきれいだな、赤より黄色の方が強いな、とか」

そんな"ととのった"越山さんですが、これからの活動は?

「絵でお金を稼ぐことが課題です。新たに絵の講師の資格取得の最中だったり、最近だと台湾の展覧会への出品のお話をいただいたり。ありがたいです」

最後に、絵を描く喜びについてお伺いしました。

「完成しかかってる、けど違うってなった時に、日本画制作の時は一度すべて洗い流します。それってかなり怖いんです。それまで積み上げてきたものを自分で否定するので。それでも、今の状態を超える作品に仕上げるためにはさらに手を加える必要がある。洗い流した後、思い切って新しい色を乗せていく…。自分なら唯一無二の作品が表現できると自分で自分を鼓舞します。すると、前の状態を超えた作品になっていきます。この瞬間が本当に気持ちいいんですよねぇ」

はじめは認めてくれなかったお母さまも静岡の美術館へ行かれたそう。
そうしたところ、一本のメッセージが越山さんに届く。

「極めてください」


◎編集後記◎
想像を遥かに超えたハードボイルドな人生を送られてきた越山さん。その内容は気付きや示唆に富んだ内容でした。

様々な経験や思考の蓄積が重厚な画面を生み出しているのでしょう。
投下した時間の流れが感じられました。

海外への展開など実直な積み重ねが実りつつあるようです。

絵の世界や自身の内面の世界と向き合うことや、完成しかかってる絵を壊して新しい世界を切り拓く姿にとても真摯で誠実な姿勢を感じました。