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【錦江しごと図鑑】錦江町で人生の転機を迎える。 大井健史さん

今回の錦江しごと図鑑、21人目は錦江町で地方創生に取り組まれる大井健史おおいたけふみさんにお話をお伺いしました。

もの腰がとても柔らかく普段は聞き手に回ることが多いそうですが、一体どんな幼少期を過ごされたのでしょうか。

「幼稚園の頃、当時の先生たちの間でついたコードネームが”宇宙人”。一階の教室にいて、休憩時間にトイレに行ったきり戻ってこないと。先生たちが名前を呼んだら、二階から”は〜い”と返事が聞こえてくる、とか(笑)ハサミを持たせたら自分の服をチョキチョキ切ったり、マラソンのラスト1周で靴を両手で持ってゴールしたり。集団行動ができず、友達もいない、基本的に1人遊びでしたね(笑)」

相当な変わり者だった幼稚園時代ですが、小学校に上がると徐々に社会に馴染みはじめます。

「ちゃんと人間になったのは小学校からですね(笑)リレーの選手に立候補したり、クラスでやる演劇の主演をやろうとしたり、委員長になったり、自分から積極的に目立ちにいってました。周囲の気を引きたかったんでしょうかね。僕はおもしろいやつにはなれないと思って優秀な人になろうとしたんだと思います」

「ただ、当時から地図を見るのが好きで、北海道の179ある市町村をーつずつ眺めては、いつか行ってみたいな〜と考えていました。今思うと、その時から地域に興味を持ちはじめてました」

活発で社交的な小学校時代を終えて、中学生時代に入るとまた違う大井さんが出現します。

「中学校では1年から陸上部に入ったんですけど、女子が14人で、男子が2人という環境だったんです。思春期だし女子とうまくコミュニケーションを取れず内気な1年間を過ごすことになりました」

「この時は部活外の暇な時間で、年間で200冊くらい本を読んでました。ミステリーとかを中心に雑多に。伊坂幸太郎さんとか山田詠美さんとかは当時けっこう好きでしたね」

「そこから2年に上がると後輩が入って来て、だんだんと外で遊ぶようになっていきました。さらに同級生の女子たちをまとめる立場になったりもしましたが、当時の年齢で女性の集団をまとめるのって相当に難しくて。配慮が足りなくて怒らせてしまったり。対人関係が比較的うまくやれるようになったのはこの頃のおかげだと思います」

中学卒業、高等学校は進学高へ。周りの学生に負けじと受験勉強に勤しみ、筑波大学へ合格。故郷の北海道を離れ、茨城県へ移り住み新しい環境へ飛び込みます。

「大学では国際総合学類に在籍していました。"国際"と名前が付くだけあって英語で行われる授業もありましたね。国際法や人文学、環境なんかもあって専攻は多岐に渡っていました」

「その中で僕は文化人類学へ進みました。世界各地のさまざまな地域や社会の暮らしや文化をフィールドワークを通じて学んでいく学問です」

「色々な経験を積みたい、人と同じことをするのはちょっとなあ、って思って地元の北海道から出てみたものの、他の生徒のみんなは海外志向が強く、僕はそこまでではないと思った。だから、将来については、ん〜…と悩んでいたんですよね」

オリジナリティを求める大井さんらしい思考です。
入学当初悩んでいたときに、先輩からとあるインターンの話が舞い込みます。

「ある市の若手市議会議員の鞄持ちのインターンでした。週に5~6日。経験としておもしろいかな、と思ってやってみたら…まあ、なかなかでしたね(笑)」

インターン時代にしていたポスティング作業の写真

「その政治家先生の自宅兼事務所に寝泊りしていたのですが、僕が寝るのは廊下で、冷蔵庫の音を聞きながら寝るという日々。その先生は夜まで懇親会とかに付き合ってくだらない話で夜中まで散々盛り上がって、翌朝は6時には街頭演説をはじめるとか。ちょっとすごい体力でした。反面、政治家って聖人君主じゃなくてもいいのか…って現実を知った感じですね」

「市政報告会に来るのは60~70代の方ばかりで若い人がいない。これでは政治に関心を持て、と言われる方が難しい。」

このインターンを通じて、"まちづくりという分野ってどうなってるんだろう?"という疑問が漠然と湧いてきた大井さん。地域に貢献できるような仕事を探しはじめます。

「気になった地元道内の企業に直接コンタクトを取って、親切な経営者の方に色々話を聞かせてもらいました。中にはおもしろい取り組みをしている企業はあっても、魅力的な求人に結びつかない、人が集まらない、という現実を知ることになります」

検討の結果、いったんは人材採用の支援をする大手企業に就職したものの、長続きは…

「しなかったですね(笑)仕事は1日100件テレアポで広告出稿の営業電話をかける毎日。そこは競争社会だし、成果も求められます。単純な数字を追いかけたり、成果を出すのが好きなら続けられたかもしれません。ただ、僕の人生として、本当にこれをやっていくのか?という思いがあって、日々疑問が募りました」

「今思うと、大企業勤めは安全牌あんぜんぱいを置きにいったような選択だったように思います。小学校から高校、大学、就職となんとなく周囲のみんなも納得するレールの上を行ってきた。それが腑に落ちなかったのだと思います」

まちづくりに関する仕事ができないかと思っていた矢先、現在所属されている株式会社エーゼログループが主催するイベントに出くわします。

「大学生の頃からエーゼログループの存在や活動内容は知っていました。地域で事業を立ち上げて人を呼び込むような活動内容は僕の思いとも合致していた。たまたま求人募集をしていたので、思いきって応募することにしました」

「転職する時は怖かったですね。周りの友人からも、やめとけって止められましたし。最初の1~2年くらいは不安定な未来に対する恐怖感や焦燥感、不安との戦いでしたね(笑)」

「ただ退路を絶って、人生で初めて自分自身で選んだと言える選択だったのでそこはすごくよかったです。今の業務に関わる中で、色んな人たちに出会って、それこそ都会の仕事をやめて、地方で林業の世界に飛び込んだ人もいたりしましたね」

「なぜこの仕事をやっているんだろう、っていう掘り下げが以前は浅かった。実生活や実態と合致していなかったなと今は思えます」

地域活性化センター神川(旧神川中学校)の2階にエーゼログループの錦江町オフィス
同室内

そして、株式会社エーゼログループについても話してくれました。

「弊社の代表のすごいところは事業を立ち上げるのに必要なビジョンを描く力です。製材工場から出る木の端材を使ってうなぎの養殖をしたり、そこから農業につなげたり、普通は理解が追いつかないところが、代表の頭の中では繋がっている」

「うちは今、”未来の里山をつくる”とスローガンを掲げて人は自然や生き物と触れ合うことで喜びを感じる生き物なんじゃないかと信じ、事業に取り組んでいます」

「現代のテクノロジーをうまく活用しながら、人と自然の共生ができる世界を実現させられたらいいですよね」

ご自身の本来の目的が少しずつ見えてきたような印象です。
最後にこれからの展望を少しだけお伺いしました。

「これまでは行政とのお仕事が主でした。誰かの支援を間接的にするような、外から物事を見る視点が中心です」

「プライベートでは結婚して、もうすぐ子供も生まれるという状況で。仕事で誰かの支援をしてきたけど、これからは、父として、一町民として自分に何ができるかも考えたいと思っています」

「これまで考えてきた”誰かの支援"の中に自分自身も含めるべきだ、と。一人の会社員としての活動は継続していきますが、一個人としても自分で手綱を握るような、やりきれてこなかったことにも新しくチャレンジしていきたいですね」

参考リンク)株式会社エーゼログループ



◎編集後記◎

どこか達観しているような雰囲気を醸し出す大井さん。
人当たりもよく、理解も早く、ともすれば、日和見主義に見られることもあるのではないでしょうか。

ただ、お話をお伺いしてみると、内側に持つ信念や思想の輪郭が、変化する日々の中で、徐々に明確になりつつあるようにも感じました。

人生の転機を錦江町で迎えられる大井さんのこれからが本当に楽しみですね。