やると決めたらやりきらないと。中村京子さん
錦江しごと図鑑。3人目は、スナック京のママ、中村京子さんです。
いつでも歓迎してくれる温かさと、お客さんの心を掴むご馳走でみんなから「京ママ」と親しまれる京子さん。
様々な決断、お店をする生きがいについて、伺いました。
借金しても、どうにかなる。
京子さんは、お店を始めて今年で30年。
もともと町の中心部の2階にあるお店で働いていました。
新しくお店を借りてやりたいと思っていたところ、向かいの建物が売りになっていたそうです。
「土地買って建物を崩して、お店作らないかって言われたのよね。お金もないのに、 とてもじゃないって思ってた。」
「でも友達が、『京子ちゃん。あんたがやろうと思ったら、お金を借りられるように、私が斡旋してあげる。』って言われて。」
「(この土地が)私に残されてたのかなあと思って。まあ、頑張ってみればどうにかなるかってなって借りました。」
友人からもお金を借りたり、テレビをいただいたり、たくさんの人たちに祝ってもらいながら無事にお店をオープン。
「一生懸命、死物狂いで働いて。その頃はまだお客さんも多かったし、女の子たちにも手伝ってもらって始めました。」
頼まれたら見過ごせない
お店も順調に繁盛し始めた頃、ある時銀行員のお客さんから、お金を借りてくれませんかと相談があったそうです。
「段差を無くしたいところがあったし、100万ぐらいだったらどうにか出せそうって言ったら、『お金を使うのは簡単なので、まず借りてください。』って言われて。結局また300万借りてね。ほんとに、借金まみれだったのよ。」
「とりあえず借りてみて、払えなかったらどうするか考えようって思って。それでやりきりました。借金返金まで10年間。もうほんとに365日働きましたね。」
お店を始めて18年目の頃、道路の拡張工事でお店を立ち退きしなければならなくなり、町の中心部から少し離れたところに移転されました。
そしてランチを一緒にオープンしようと言っていた料理人のマスターは、オープン後すぐに病気になってしまい、ランチ営業ができなくなってしまったそうです。
「2年くらい経ってから、友達が『ケイコちゃん、ランチの場所遊ばせてるのはもったいないよ。これだけ整ってるんだから。手伝うからやってみれば。』って言われて。みんなもお昼食べるところがないないって言うから、ランチもオープンしたんです。」
「京のラーメンは美味しいよとか、生姜焼きが美味しかったとか言ってくれてね。」
「わざわざ鹿屋(隣町)から、毎週カツ丼を食べに来てくれる人もいて。お友達にも京のご飯美味しかったから、行ってみようよって、誘ってくれてたりして。」
その後コロナ禍もあり、お昼の営業はやむなく休止されましたが、夜のスナックは毎日営業しています。
「本当は週に1回ぐらいは休みたいって思うんだけど、京に行こうって来てくれるお客さんに気の毒だと思ってね。お客さんが誰も来なくても10時半頃まではお店開けてるっていう感じかな。誰も来なかったら、今日は休みだったとか思えばいいし。」
「お客さんに恵まれたとしか言いようがないしね。だから私のできる範囲で期待に応えられたら。」
期待に応えること。それは地域の仕事まで広がります。
「『誰か(農業)手伝ってくれる人はいないか?』ってお客さんが言い始めて。誰かいないかってずっと言ってくるもんだから、『私、仕事夜しかしてないから、1週間でも10日でも、誰か来るまで行ってあげるよ。』って言って行き始めたのが縁で。」
「そんで誰もこなかったから、辞めるわけにはいかないのよね。そんなこんなで、今までもうずるずる。どうしても足りない、どうしても来てって言われれば、もう拒否もできなくて。気の毒だな、手伝ってあげないとって。」
「私はもう絶対やるって決めたらやるんだから。なぜかね、そんなところがあるのよ、私は。がむしゃらにやろうと思ったらやるっていうのがある。」
お客さんに恵まれて
最近は、若い子達が団体で来てくれるのが嬉しいと語る京子さん。
「『僕たちが行くところがないからずっと元気で頑張ってね。』とかね。」
「あとこの間みたいに、私の喜寿の誕生日をみんなで祝ってくださって。 ああ、やっぱり私はお店をやってきてよかったなって。あの時のことはほんとにね、今でも話したらもう、涙が出てくるね。」
「77本、バラの花もらって。ケーキも持ってきてもらって。しかも私には内緒で貸し切りにしてくれてね。靴を買ってくれた子がいたり、霧島まで車で温泉に連れて行ってくれたり。その前の晩も若い子達が来てくれて、カウントダウンで誕生日を祝ってくれてね。もう感動ですよ。唯一、それがほんとに1番の光景。だから私ついてたのかなって思う。」
借金まみれから仕事仲間の死、お店の立ち退き、コロナ禍など、転びそうになりながらもなんとか立って、走って、前を向いてお店を続けられたからこそ叶った光景なのでしょう。
足腰が叶うまで
これからのことについては、
「この土地と建物は息子に譲るつもり。(お店の)後継者がいたら、その人に預けるっていうか。みんなが集まってくれる場所にしてくれれば、それが1番かなって私は思ってるところ。愛してくれるお店をつくってもらいたいかな。」
「でも、『ここが無くなったら来るところがなくなるから、ママ元気で続けてね。』って言ってくれる若い子たちがいる間は、お店を続けたい。 あと10年。あと10年くらいはやりたい。やるからねって(息子に)言ってます。」
「そんなババアになるまでやるの?」と息子さんから言われたそうですが、「そりゃやるさ!」と答えたとおっしゃる京子さん。
「足腰が叶う間はやりたい。これがなくなったら、私にはもう何も生きがいがなくなる。みんなと話をするのが楽しいから。」
「ちらし寿司が食べたいって言えば、ちらし寿司を作るし。煮物がいいって言えば、煮物を作るし。私はそんな田舎料理しかできないけど、 私のできる範囲内でみんなが喜んでくれれば、それでいいかなって思います。」
*編集後記*
お客さんの声かけや頼みをたくさん受け入れながら、自分の意志で決断してきた京子さん。一見ネガティブな印象のある「しょうがないな」も、その前には「あなたが言うなら」があるのでしょう。この町にはたくさんの「しょうがない」があって、その分助け合いのつながりが強いのだと感じます。
京子さんがどこかのタイミングでお店を畳むことがあったかもしれないと思うと、覚悟を持って決断されたその意志を、私たちはちゃんと受け取って、違う形だとしても継いでいきたいと思いました。